民数記8章

8:1 主はモーセに告げられた。

8:2 「アロンに告げよ。『あなたがともしび皿を載せるとき、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい』と。」

8:3 アロンはそのようにした。主がモーセに命じられたとおりに、燭台の前に向けてともしび皿を載せた。

 燭台に載せられたともしび皿は、燭台の前を照らすようにしました。燭台は、幕屋の内部の南側に置かれました。それは、北側に置かれた机と向かい合わせにされました。ですから、燭台の前を照らすことは、机を照らし出すことになります。そこには、パンが置かれました。神様は、常にそのパンがご自分の前にあるように望まれました。そこに注目しておられるのです。

出エジプト記

25:23 また、アカシヤ材で机を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを一キュビト半とする。

25:26 その机のために金の環を四つ作り、四本の脚のところの四隅にその環を取り付ける。

25:27 環は枠の脇に付け、そこに机を担ぐ棒を入れる。

25:28 アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、これに金をかぶせる。

25:30 机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

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レビ記

24:6 それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。

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26:35 垂れ幕の外側には机を置く。机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。その机は北側に置く。

 「臨在のパン」と訳されていますが、神がともにおられることが強調されているのではなく、神が注目していることが強調されてます。

 パンの詳細は、後にさらに語られますが、人としての主イエス様を表しています。人としての歩みに神は注目しておられたのです。

・「臨在の」→顔。顔や表面を表す。顔を向けているパンの意。後半の言葉が、絶えず神の前にあるようにすると記されていて、神が顔を向けていることが表現されています。ですから、このパンの名称としては、「御顔の前のパン」すなわち「見られているパン」あるいは「注目のパン」です。

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8:4 燭台の作りは次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。主がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。

 この燭台は、金の打ち物です。それは、一つの塊から作られたことを表しています。純金一タラントで作られました。独り子の御子の栄光を表しています。灯火は、聖霊によって現された御子の栄光の輝きです。聖霊は、御子の栄光を現すために働かれました。ですから、燭台自体は、聖霊の働きを表しています。聖霊が表そうとした御子の栄光は、燭台の造りによって明らかにされています。それは、人となられて、完全であることを証しされたことを表しています。それが独り子の御子の栄光なのです。それは、パンを照らし出します。六つずつ二列で、十二個です。人となられ、神に服従しその御心を行い、証しされた方です。

出エジプト記

25:35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。

25:36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作る。

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8:5 主はモーセにこう告げられた。

8:6 「レビ人をイスラエルの子らの中から取って、彼らをきよめよ。

 レヒ人をイスラエル子らから取り、清めます。

8:7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らにかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめる。

 清めの手順は、まず、罪の清めの水を彼らにかけます。これは、ツァラートのきよめに用いられる水と同じものです。赤い雌牛の灰からつくられる水については、まだ示されていません。

 この水は、湧き水の上で、小鳥が屠られ、杉の木とヒソプと緋色の糸で束にしそれで振りかけられます。一羽の小鳥は、その水に浸けられてから放たれます。これは、神の御子が十字架にご自分を捨てられよみがえられたことの比喩です。きよめられるものは、湧き水が表す聖霊によって、きよめられることを表しています。よみがえりと関連づけられているのは、肉に対して死に、新しく生まれた者として生きることを表しています。

 全身にかみそりを当てることで毛を剃り落とします。毛は、覆うものの比喩です。しかし、今まで自分覆うことをしてこなかったことを表す毛を一旦剃り落とします。改めて生えてきた毛で身を覆い歩むのです。

 衣服を洗います。服は、外に現れる行いを表していますが、本来、神の栄光を現すべきものです。そうして来なかったので、服を洗い、神の栄光のために歩むようになるのです。

 そして、身を清めます。外側だけでなく、彼ら自身が清められる必要があります。

8:8 そして若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたはまた別の若い雄牛を罪のきよめのささげ物として取る。

 レビ人の宥めのための捧げ物が用意されました。若い雄牛は、二頭です。一頭は、罪ための捧げ物、もう一頭は、全焼の捧げ物です。油を混ぜた小麦粉は、穀物の捧げ物です。

 雄牛は、しもべを表していて、神の御心を行って従われたことを表しています。そして、それは、油を混ぜた小麦粉のように、人として、御霊に満たされて、御心を行う歩みでした。

8:9 あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエルの全会衆を集め、

8:10 レビ人を主の前に進ませる。イスラエルの子らは手をレビ人の上に置く。

8:11 アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。

8:12 レビ人は、雄牛の頭に手を置く。そこであなたは一頭を罪のきよめのささげ物として、また一頭を全焼のささげ物として主に献げ、レビ人のために宥めを行う。

8:13 あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主に献げる。

8:14 こうして、あなたはレビ人をイスラエルの子らのうちから分け、レビ人はわたしのものとなる。

 レビ人は、罪を清められ、そして、全焼の捧げ物のゆえに受け入れられ、主に使えることができるものとされます。

8:15 この後、レビ人は会見の天幕に入って奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物として献げなければならない。

 彼らは、奉献物であり、神に捧げられたものであるのです。

8:16 彼らはイスラエルの子らのうちから正式にわたしに与えられたものだからである。すべてのイスラエルの子らのうちで、最初に胎を開いた、すべての長子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

 彼らは、長子の代わりに取られました。

・「正式に付け」→与える。定義と例 受動態分詞は、しばしば帰属的または述的形容詞として機能しますが、名詞としても機能します。受動態分詞は、受動態で口頭行動を表現します。つまり、分詞によって記述されたものは、分詞によって表現された行動を受け取ります。Qalの受動態分詞については、語尾が形容詞語尾に似ていることに注意してください。

8:17 イスラエルの子らのうちでは、人でも家畜でも、すべての長子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての長子を打った日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。

 長子は、主のものとされました。主のものとして聖別したのです。 レビ人は、長子の代わりに取られました。ヘブル書では、「長子の教会」に近づいていると記されています。神のものとして聖別された者たちのことを表しています。

ヘブル

12:22 しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、

12:23 天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、

12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。

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8:18 わたしは、イスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりにレビ人を取った。

8:19 わたしは、イスラエルの子らのうちからレビ人をアロンとその子らに正式に付け、会見の天幕でイスラエルの子らの奉仕をし、イスラエルの子らのために宥めを行うようにした。それは、イスラエルの子らが聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないようにするためである。」

 レビ人を取ったのは、長子の代わりとするためで、彼らを神のものとして聖別し、イスラエルの子らの代わりに幕屋で奉仕させるためです。聖別されたレビ人を取ることで、イスラエル子らが幕屋に近づくことで災いが及ぶことのないためです。

・「正式に付け」→与える。定義と例 受動態分詞は、しばしば帰属的または述的形容詞として機能しますが、名詞としても機能します。受動態分詞は、受動態で口頭行動を表現します。つまり、分詞によって記述されたものは、分詞によって表現された行動を受け取ります。Qalの受動態分詞については、語尾が形容詞語尾に似ていることに注意してください。

8:20 モーセとアロンとイスラエルの全会衆は、レビ人に対してそのようにした。主がレビ人についてモーセに命じられたことすべてにしたがって、イスラエルの子らは彼らに行った。

8:21 レビ人は身の汚れを除き、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として主の前に献げた。またアロンは彼らのために宥めを行い、彼らをきよめた。

8:22 この後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々は主がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。

 レビ人は、清められました。そして、奉仕しました。

8:23 主はモーセにこう告げられた。

8:24 「これはレビ人に関わることである。二十五歳以上の者は、会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

8:25 しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。

8:26 その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務に当たるのを助けることはできるが、自分で奉仕をしてはならない。あなたはレビ人に、彼らの任務に関してこのようにしなければならない。」

 レビ人の奉仕は、二十五歳からです。五十歳からは、もはや任務にあたることはできません。助けることはできます。